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発達障害者は発達がアンバランスなのか

アンバランスという表現は不適切 発達障害はよく、脳機能の発達がアンバランスだという表現がされる [1–4]。障害という言葉を嫌ってこう表現している場合も多いようだが、私からすれば同じことだ。「アンバランス」という言葉と「バランスが取れている」という言葉をくらべれば、前者のほうが劣っているという印象を持たれても仕方あるまい。中には、得意なことと不得意なことの差が大きいという比較的適切な説明をしているものもある [3,4]。しかし、アンバランスという表現は不適切だと思う。 アンバランスなのは健常者のほう? そもそも、発達障害(注意欠陥・多動性障害: ADHD)を抱える私から見れば、 アンバランスなのはいわゆる健常者(定型発達者)のほう である。健常者は社会的コミュニケーションの能力が異常に高いし、他人に対して異常なまでに興味を示すし、その割に好きなことへの興味は薄いし、注意力が異常にあるし、行動が慎重すぎる。健常者を「定型発達症候群」と呼ぶ皮肉があるが、まさしくそのとおりだ。 発達障害者が負うリスクとコスト 私は投薬治療を受けているが、世が世なら、投薬治療を受けるのは健常者のほうかもしれない。健常者が自分たちにとって都合のいい社会を作り上げてきたから、そこに参加するためにはどうしても薬の力を借りたり、努力をしたりする必要がある。社会の恩恵も受けているのであまり簡単に文句は言えないが、そういう社会だから、発達障害を抱える本人が、薬物性肝障害のリスクを負い、医療費を負担し(保険適用 前 で月数万円するが、多くは皆さんにも負担していただいている)、通院のコストを負担しているのだ。健常者に通院して薬を飲んでみろとは言わないが、これらのリスクやコストは、もっと広く負担を分かち合うべきだろう。 単に症状を説明すればよい 話はそれたが、それではどう表現すればいいのか。私の意見としては、 単に症状を説明 すればよいと思う。ASDなら、社会的コミュニケーションが不得意で、興味・関心の範囲が狭く深いといったものだ。これだって同じじゃないかと思われるかもしれないが、表現を適切に選べば相対的な表現ができる。アンバランスというのは、バランスという絶対的存在を基準として劣るものと受け取られかねない一方、相対的な表現であれば、より中立的な印象を与えられるだろう。反対意見もあるか