障害者になるにあたって考えたこと

偏見と差別への不安

前の記事で述べたとおり、筆者はこの2月に発達障害であるADHD(注意欠陥・多動性障害)と診断された。近いうちに精神障害者保健福祉手帳を取得する見込みで、取得すれば日本の法律上、障害者となる。

障害者といえば、様々な法整備や社会的理解が広まっているものの、残念ながらまだ強い偏見と差別にさらされている。筆者は小さい頃に何度か転校をしたことがあり、偏見を受けかねない立場の経験はあるし、少なからず対処もしてきた。しかし、障害者のような強い偏見と差別を受ける立場になるのは初めてで、経済的不安(発達障害と分かると雇ってくれないのではないか、企業の障害者枠は賃金が安く据え置かれるのではないか)や、周囲の無理解への不安は強いものがある。

そこで、障害者を取り巻く現状を考えると、その不安や差別的取り扱いを解消するために、もっと強力な法整備や支援が必要ではないかと思い、その旨を妻に話した。すると、その類の不安は、女性は(障害者でなくても)抱えているものだよという返事をもらったのである。

女性が抱える不安と同じということにハっとする

確かに考えてみればそうで、男女雇用機会均等法をはじめとする様々な法整備や、社会における理解が以前よりも進んでいるものの、女性は生活の様々な面でいまだ強い偏見と差別にさらされている。雇用においても、賃金や昇進における不平等はもちろんのこと、妊娠・出産に伴う差別的取り扱いなどは絶えない。もちろん、昇進などについては女性自身の意欲が一般に薄いという事実もあるが、それは現状の男性中心の枠組みに問題があるとも考えられ、女性のせいにはできまい。妊娠・出産により職を失ったり、冷遇されたりするのではないかという不安を持つのはよくあることだ。 さらに、雇用だけでなく、家庭や地域社会においても女性に対する深刻な偏見と差別が残っているのは言うまでもない。

当事者の女性の皆さんはともかく、男性の皆さんでも、そんなことは知っているよ、と思われる方は少なくないだろう。私もそう思っていた。なにせ、私は根っからの性差別反対論者で、玩具売り場でいまだに女の子向け・男の子向けといった区別がされているのに辟易とし、一方で力仕事は女性にもやってもらうことにしている(1人で持てないなら、2人で持てばいい)。花束贈呈役を周囲が当たり前のように女性から選ぼうとしたため、強硬に反対して自分で贈呈に行ったこともある。それに、受付や展示会のコンパニオンが決まって女性ばかりなのにはいつも強い不快感を覚えている。

反対意見はあるだろうが、一見女性に配慮しているように見えることだったり、女性の魅力を活かしているように見えることでも、奥底には女性に対する偏見や差別に通じる心があると信じて徹底してきた。 そんな筆者だから性差別をしないのは当たり前、無意識にも性差別をすることのないよう勉強等の努力も欠かさなかった。ところが、自分が障害者になると思って抱えた不安と、女性の抱えている不安が同じ類のものであることには、気が付かなかったのだ。

これは、いくら努力しても、当事者の気持ちにはなれないということを意味すると筆者は考えている。いくら知識があっても、当事者の気持ちになって感じることは難しいということだ。

私たちにできること 

では、当事者の気持ちになれないのであれば、せめてどうしたらいいのだろうか。筆者としては、寛容と多様性が重要だと思っている。

寛容とは、自分とは異なる特徴を持つ他者を受け入れることだ。男性ならば女性がそこにいることを受け入れることはそうだし、自分とは異なる性的指向・性自認を持つ人や異なる宗教や価値観を持つ人、もちろん障害者を受け入れることもそうだ。受け入れるといっても何も気構えることはなくて、基本はそこにいることを当たり前のこととして認めるということ。その上で、勉強なり努力をして、本人の気持ちになれないまでも、できるだけ理解しようとすることは、もちろん重要だ。そこから配慮すべきことが分かっ。なお、特に性的指向・性自認や障害などで、本人が公表したくないと思っているのに無理やり聞き出そうとするのは厳禁だ。

また、多様性がなければ、せっかくの寛容さも発揮する機会がない。男性ばかりの職場では女性のことを想像することには限界があるし、障害者が職場にいなければ、その人の中では障害者は自分の生活には関係ないものとして認識されてしまう。(身体・知的を含む)障害者は日本におよそ850万人いるので(平成29年版障害者白書)、日本に住んでいる人の約15人に1人は障害者だ。この数字はおそらく読者の皆さんの想像よりもずっと多いのではないか。もちろん身体障害者に高齢者が多いなど分布の偏りはあるが、私たちが現在実現している多様性とはこんなものなのだ。

経済成長が必要な理由

言うは易し行うは難しで、分かっているけれども実際に配慮する余裕がないんだという意見の人もいるだろう。確かに綺麗事で済む話ばかりではなく、配慮には経済的な余裕が必要であることも少なくない(妊娠・出産にともなう代理要員の確保や、障害者に対する各種配慮など)。

しかし、その余裕がないならば、私たちはまだ経済的にあまりにも貧しいということだ。脱成長などと気の抜けたことを言う政治家がいるが、論外だ。どんどん成長して経済的余裕を持たなければ、心置きなく配慮ができる社会にはならない。もちろん再分配は重要だが、それも成長して原資を確保できての話だ。成長こそが、持てない者を助けるのである。

これからも私たちの不断の努力が必要

昔とくらべると、私たちの社会は、寛容さも多様性も随分と増して、多くの人にとって過ごしやすいものになったのは間違いない。しかし、こんなもので満足してはならない。今のままで十分過ごしやすいよという人はいるだろうが、それはその人自身が幸運だということだ。自分が過ごしやすいからといって、まだまだ過ごしやすくない人もいるということを忘れてはならない。私たちは、不断の努力を続ける必要があると筆者は考えている。

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